中庸思想を履き違えた リベラルな占い師たち
近年、「仏教的に言えば」「陰陽で見ると」という言葉を、占い業界でもよく耳にします。
しかしその多くは、思想の核心を外した浅い理解にとどまっているように感じます。
『中道』は優しさではない
釈迦が悟りを開く過程でたどり着いた『中道』という思想は、苦行と欲望という二極のどちらにも偏らない生き方。
けれど現代ではそれが、
「否定しないで」「やさしく接しよう」「ぜんぶ受け入れよう」
といったリベラル的な姿勢と混同されがちですが、まったくの別物です。
釈迦が解いた『中道』は、単なる優しさではありません。
厳格な自己管理と修行の果てに辿り着く、鋭い洞察と覚悟の思想。
表面的な「愛」や「共感」だけで『中道』を語るのは、滝行や座禅を数回やって「悟りました」と言うようなものです。
『中庸』は鍛錬の末に見えてくる『道』
同じことは陰陽思想にも当てはまります。
「陰と陽のバランスが大事」と言う人は多いのですが、陰陽は単なるバランス論ではありません。
陰陽道の『中庸』は、宇宙の運行・天体のリズム・季節と人体・土地と人間関係……そうした対局の相互作用を読み解いた上での秩序観です。
それを、スピリチュアル的な「なんとなく」で語ってしまうと、思想は途端に軽くなってしまう。
本来の中庸思想は、「ほどほどがいい」という曖昧なファジーさではなく、深い洞察と鍛錬の末に見えてくる『道』なのです。
「愛と共感」だけでは届かない思想
西洋スピリチュアリズムの影響もあり、
「愛がすべて」「人間に上下はない」「一流も二流もない」
という思想が広く浸透しています。
もちろん、それ自体を否定するつもりはありません。
けれど、それを仏教や陰陽思想と同一視してしまうのは思想への冒涜に近いと感じます。
思想とは、やさしい言葉で包み隠すものではなく、真理に切り込むための鋭い刃です。
中道も中庸も、「なんでも受け入れる」思想ではありません。
むしろ、人間の甘えや慢心、依存心を厳しく削ぎ落とす思想です。
「リベラルな愛」は組織に耐えられない
この“刃”を持てない人は、最初は多くの人に好かれます。
柔らかく包み込むような空気をまとっているからです。
けれど、その土台が「なんでも許す愛」にあると、いざ組織や社会に直面したとき、矛盾が露呈します。
なぜなら、社会には必ず秩序と階層が存在するからです。
それを無視して「みんな平等」「上下はない」と言い続ければ、やがて実務と思想の乖離が生まれます。
かつて、ぼくの周囲にもそういう人がいました。
表面的には「愛と共感」を掲げ、全員を包み込もうとする。
一見、優しくて柔らかいけれど、いざトラブルが起きると責任の所在があいまいになり、リーダーとして最も重要な「線引き」ができない。
思想がリベラルであるほど、組織の力学に耐えられないのです。
「悟ったふり」をした思想の迷走
もう一つのタイプは、若い頃に競争社会を生き抜いてきた人が、年齢を重ねて急にスピリチュアルに傾くケース。
過去の自分を否定し、「悟り」「慈悲」を掲げ始めるものの、思想と経験が噛み合わず、現場とのバランスを崩してしまう。
これは思想の“移行期”で止まっている状態です。
本当に仏教や陰陽思想を身につけるには、年齢や過去のキャリアに関係なくゼロから修行し直す覚悟が必要です。
それを飛ばして「悟ったふり」をすれば、思想は空回りし、現実との乖離が広がっていきます。
思想とは「現場と思想を接続する構造」である
ぼくの周りでも、リベラルな思想に傾きすぎて、結果的に現場との摩擦に耐えられず離れていった人たちがいました。
彼らは決して悪人ではありません。むしろ優しい。
しかし、思想の土台が脆いのでリーダーシップも組織との共鳴も長続きしないのです。
思想とは、理念でもスローガンでもなく、現場と思想を接続する構造です。
愛や共感だけでは現場は動かない。
中道も中庸も、そそれを実践し、社会の中で形にしていくための思想です。
浅い思想のままリーダーになろうとすれば、必ずどこかで行き詰まります。
そこから先へ進めるのは、自らの思想の甘さを自覚し、深く掘り直した人だけです。
自分の思想を掘り直すとき
やさしさや愛を掲げるのは簡単です。
けれど、その内側にある「構造」と「覚悟」を見つめ直すことこそ、真のリーダーへの道です。
いまこそ自分の思想をもう一段、深く掘る時です。
そこから新しい時代の占い師像が立ち上がっていくでしょう。